人の親切を断ってはいけない、らしいです。

確かめると京都植物園に一人で来るのは9年ぶりである。
こう書いてみてもちょっと信じられない。秋になると毎年植物園に行きたいと思っていて、それには時間と心の余裕が必要だから、カレンダーを見ては最初に行った時のことを思い出していたけど、それがもう9年?

一人でぼんやりしたい時に、京都植物園はいい。ここまでは外国人観光客もあまり来ないので、学校行事やイベントがなければ、豊かに自分の時間を過ごすことができる。

僕がF3のシートを倒して足を組み、買ってきたコーヒーを飲んでいると、散歩に来ていた老夫婦が前を通りかかり奥様から「何かお手伝い、しましょう」と声をかけてくださった。ちょうど右手で持っていた紙コップを左に持ち替えるところで、なにか困っているように見えたのだろう。でも本当にしてもらうことがないので笑顔を作り、お礼を言って丁寧に断った。

子どものころからのくせで、反射的に人からの好意を断ってしまうことがある。このくせは高校一年生の時に決定的に強くしたもので、たぶん人からすれば頑なと見えるんだろう。僕だって重い鞄や片手で持ちきれないものを持つのは大変で、通っていた高校の自転車置き場から昇降口まではかなりの距離があり、朝早くの誰もいない自転車置き場で荷物を持ってくれる人が来ないかと期待していた時期が、そういえばあった。

クラスにちょっといいなと思っている背の小さな女の子がいて、その子もわりと早くに登校してくるのだった。その日僕が持っていたのはいつもの鞄と、油絵のカンバス2枚(クリップで合わせた)だ。その子がいつも荷物を持ってくれていたのかは覚えていない。その時彼女はカンバスを持って行ってくれると手を出したので、ありがたく渡した。

僕が5階の階段をやっと登りきると、廊下に水道があり、そこで彼女が手を洗っていた。はじめはなぜそこまでごしごしと手を洗っているのだろうと思ったのだが、僕の油絵具がついてしまったのだとすぐにわかった。油絵具というのは厄介で、一晩くらいじゃ乾かないし、手についたらちょっと石鹸でやったくらいじゃ落ちない。だからカンバスクリップで2枚合わせにして、絵の具が付着しないようにするのだ。

僕は気がつかないふりをして、彼女の後ろを通り去った。次の朝からは、そもそも誰かに荷物を持ってほしいと思うこと自体がだめなのだと腹を立て、昨日までの自分に決別をしたのだった。

かなり話は飛ぶ。
京都は親切な人が多い。京都人は「いけず」だとよくいうが決してそんなことない。

店の前でドアを開けようといったん止まれば、だいたい道を行く人が開けてくれるし(自転車に乗った人まで)、歩道でマフラーを巻いてくれようとしたり、全然知らない人同士が連係して、僕の落としたねぎをひろって追いかけてくれたり、あとはなんだろう、数えきれない。この間などは、自宅前のスロープを上がろうとして集中していたら、通りがかった車から人が降りてきて車いすを押そうとまでしてくれた。山の中じゃなく、町中ですよ?

最初に書いたように、結果的にではあるが、ねぎを届けてくれた以外のことは反射的に断ってしまう。もうシンプルに悪いから、ということである。それをずっと見ていたらしい妻に叱られる。せっかく勇気を振り絞って声をかけてくれたんだよ? なんでそうなんでもかんでも断るの?

勇気? 確かにそうかもしれない。僕も親切心で知らない人に声をかけたことはあるけど、ちょっと勇気がいる。で、断られるとほんのちょっぴりではあるけど、ショックがある。それに、そんなことをやっていたら、車いすで困っている人に声をかけてくれる人がいなくなるということだそうだ。

すみませんでした、確かにそうですね、と僕は謝る。そうでしょ、と妻は言う。でもさ、歩道でマフラーを巻いてくれようとした話とか、いつも思い出したように怒るじゃん。

だって知らない女の人がマフラー巻いてあげましょうかなんて、そんなの聞いたことない! しかも歩道でよ! もうほんとに信じられない!

だから巻いてもらってないよ。ちゃんと断ったって言ってるじゃん。

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